東京都荒川区にある南千住回向院は別名を小塚原回向院と言います。江戸時代に小塚原には大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに3大刑場と呼ばれた小塚原刑場が置かれていました。明治維新後に廃止されるまでの間、約20万人の処刑が行われたといわれています。
南千住回向院の縁起は、1667年に本所にある回向院(現在の両国回向院)が、刑死者や牢獄で死んだ人を供養するために開設したものです。昔は現在の倍以上の敷地がありましたが、常磐線が敷設されたときに南北に分断されて、南側にあった刑場跡地は南千住駅南口を出た正面にある延命寺として独立しました。そちらには刑死者などの無縁仏を供養するための首切地蔵が安置されています。
南千住回向院には、安政の大獄で刑死した志士や、江戸時代の大犯罪人などが埋葬されているほか、杉田玄白や前野良沢らがこの刑場で遺体の腑分けを見学し解体新書を出版したことから、腑分けに立ち会ったことを顕彰する碑(冒頭の写真『観臓記念碑』)が建てられています。そこで、刑場の歴史を今に伝える場所「小塚原の刑場跡」として荒川区の指定記念物に指定されています。誰でも自由に見学ができるように大きく『史跡』と謳われています。
回向院の入り口左手には、戦後最大の誘拐事件といわれる『吉展ちゃん誘拐殺人事件』で犠牲になった村越吉展ちゃんを慰霊するための、吉展地蔵尊という大きな地蔵が立っています。まずは、吉展ちゃんの魂が安らかならんことを祈り合掌しましょう。
南千住回向院自体は、鉄筋コンクリート造の建物に改築されており、本堂などのいわゆる寺院特有の建物は存在しません。建物1階にある寺務所の脇を通り抜けると墓所があります。向かって左手が一般の墓所で、右手が史跡と完全に分けられています。荒川区指定記念物(史跡)という掲示がされていますので間違えることはないでしょうが、くれぐれも一般の墓所に足を向けないように気をつけてくださいね。
南千住回向院は、安政の大獄で刑死した吉田松陰が最初に埋葬された場所です。1963年に高杉晋作らの手によって松陰の遺体は掘り出され、現在の松陰神社の地(世田谷区)に改葬されますが、高杉らは『聖なる血が残っている』と以前の墓地を修復し、祈りを捧げられる場所として残しました。
越前国福井藩藩士の橋本左内もここで眠っています。幕末の名君のひとりともいわれる松平慶永(春嶽)の側近として、藩政、幕政に大きく関わり、第14代将軍継嗣問題において一橋慶喜擁立を画策した中心人物のひとりです。安政の大獄に連座し、25歳の若さで刑死しています。
このほかにも、幕末期の儒学者で『日本外史』の作者としても有名な頼山陽を父に持つ頼三樹三郎など、安政の大獄等で刑死した人たちの墓が並びます。
江戸時代末期の志士のほかに、小塚原刑場で処刑された、稀代の悪党と称される人の墓も置かれています。義賊として人気のあった鼠小僧次郎吉が実際に眠っている墓は両国回向院にありますが、鼠小僧から恩を受けた人々が偲ぶために建立した墓だそうです。片岡直次郎は、講談や歌舞伎、映画などのモデルにもなった江戸時代後期の小悪党、河内山宗春の相棒で、直次郎自身も歌舞伎の題材(天保六花撰)として描かれています。高橋お伝は、明治初期に最初の夫を毒殺後、全国各地で悪事を重ねた稀代の悪婦。腕の喜三郎は、江戸時代の侠客で、『喧嘩で深手を負った自分の片腕を子分に鋸で切り落とさせた』という逸話の持ち主です。
力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らと戦った、昭和日本のプロレス創生期を支えたアメリカ人プロレスラー、カール・ゴッチの墓もこの史跡の一画に設けられています。ジャーマン・スープレックス・ホールドの開発者でもあるゴッチは、アメリカよりも日本での人気が高いということで、この墓にはゴッチの遺骨が納められているということです。