安政の大獄によって幕府の命で長州から江戸に連行された吉田松陰は1859年に刑死し、その遺骸は他の志士たちと一緒に小塚原回向院(荒川区南千住)に葬られます。松陰門下の飯田正伯らの手で、回向院で最も大きな墓碑が建立されますが、罪人として処刑された者であるからと、幕府の命により取り壊されてしまいます。1962年に長州藩が朝廷に働きかけたことで、改めて松陰を含め墓碑の建立が許されました。久坂玄瑞らの手で再建されて、現在も回向院墓地に存在しています。
しかし、小塚原回向院は刑死者の墓地という位置づけであったため、松陰門下生たちはそれを許容することができませんでした。そして1863年の1月5日に、高杉晋作、伊藤博文などの手により長州藩主の別邸があった、現在神社があるこの地に改葬されたのです。なお回向院の墓は、遺骨を掘り出した後に高杉らが「聖なる血が残っている」と修復したものです。
この世田谷の地に改装された墓地もまた、幕府の手により1684年に破壊されますが、1868年に再建され、1882年に吉田松陰を祀る松陰神社が、伊藤、山県有朋、乃木希典らの手で創建されました。
神社の境内には、1927年から1928年にかけて造営された社殿、長州(萩)の松下村塾を模した建屋、伊藤や山県などが奉献した32基の石燈籠などを見ることができます。
境内の一画にある、松陰先生他烈士墓所には、吉田松陰をはじめ、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮、らの墓碑があります。墓所は社殿に向かう手前の西側に、細い小路があり(松陰墓所の案内があります)、そこを進んだ奥の一画に設けられています。墓所の入り口には、木戸孝允(桂小五郎)が奉納した鳥居が、墓所を守るかのごとく建てられています。
松陰神社の周辺には、世田谷区役所や国士舘大学があり、文教地区と住宅地が共存する閑静なエリアです。『大正維新の松陰塾たらん』と唱えた国士舘大学が大学を置くのはこの地しかなかったんでしょうね。公園を挟んで隣り合っている地図を見た時に、妙に納得してしまいました。
松陰神社の西側には、まさに隣接する形で明治の元勲桂太郎の墓もあります。桂の遺言でこの地に埋葬されたそうです。松陰神社の陰に隠れて目立たないのと、松陰に比べると人気もないのでしょうね。参拝者はごく少ないようです。